覚王山とは。

名古屋市の中において独特の雰囲気を持つ覚王山の魅力をご紹介します。

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町なかの小さなお遍路 ― 覚王山八十八ヶ所をめぐる

町なかの小さなお遍路 ― 覚王山八十八ヶ所をめぐる

日泰寺の参道や、そのまわりの坂道を歩いていると、弘法大師をお祀りする小さなお堂に出会うことがあります。これが「覚王山八十八ヶ所」の札所です。四国のお遍路を町なかに写した、名古屋でもちょっと変わった霊場を紹介します。

日泰寺の門前に生まれた「写し霊場」

四国八十八ヶ所は、弘法大師(空海)ゆかりの札所をめぐる巡礼として知られています。その四国の札所をまねて、別の土地に八十八ヶ所を設けたものを「写し霊場」といいます。覚王山の八十八ヶ所も、そのひとつです。

始まりは、日泰寺(当時の日暹寺)の創建から5年後の明治42年(1909年)。先達の山下圓救(やました えんきゅう)が発起人となって、八十八ヶ所の霊場をつくるための寄付集め(勧進)を始めました。世話人には伊藤萬蔵(いとう まんぞう)らが名を連ねています。伊藤萬蔵は、全国の寺社に石造物を寄進したことで知られる名古屋の商人で、日泰寺の山門近くにある第一番札所のそばにも、伊藤萬蔵の石塔があります。

ここで少し不思議なのは、日泰寺そのものはお釈迦さまを祀るお寺だということ。では、なぜ門前が弘法大師の霊場になったのでしょう。はっきりした理由はわかっていないようですが、明治の終わりごろは全国的に弘法大師の信仰が盛り上がっていた時期で、門前のにぎわいづくりもあって弘法大師の縁日が始まったという説があります。毎月21日の「弘法さん」の縁日と、八十八ヶ所の霊場は、この町で一緒に育ってきたといえそうです。

電車に乗って、霊場と縁日へ

霊場ができて間もない明治44年(1911年)には、電気鉄道が近くの月見坂まで通じました。日暹寺と八十八ヶ所の霊場、そして21日の弘法市は、電車に乗って出かける名古屋の行楽地になっていきます。大正10年(1921年)に描かれた日暹寺の鳥瞰図にも、お寺のまわりに八十八ヶ所の霊場が広がる様子が描かれているそうです。

四国の霊場を写したお堂が門前にできたことは、日暹寺のまわりに、にぎわいのある門前町が育つきっかけのひとつになりました。いま私たちが歩いている参道の風景も、百年あまり前の人たちのこうした取り組みの上にあるわけです。

訪ねてみるなら

毎月21日の縁日に

札所のお堂は、ふだんは扉が閉まっていることが多いようです。弘法大師の月命日にあたる毎月21日の縁日には、ふだん閉まっているお堂が開いていることもあるので、中までお参りしてみたい方は、縁日の日に出かけるのがよさそうです。参道にたくさんのお店が並ぶ日でもあるので、露店をのぞきながら、札所を探して歩くのも楽しいと思います。

参道の「歳弘法」

参道の途中には「歳弘法(としこうぼう)」と呼ばれるお堂もあります。大塚耕平さんの「弘法さんかわら版」(2002年)によると、ここには1歳から、高野山で亡くなった62歳までの、年齢ごとの弘法大師の像が祀られているそうです。入口の小さなお堂には「おもかるさん」と呼ばれる石が置かれている、とも紹介されています。

お参りするときの心がまえ

覚王山のあたりは、電車が通ってから住宅地としても発展してきた町です。札所めぐりをするときは、ここが暮らしの場でもあることを忘れずに。大きな声を出さない、私有地に入りこまない、お墓参りの方の邪魔をしないといった配慮をしながら歩きたいものです。

明治の終わりに発起人や世話人が力を合わせて開いた、小さな巡礼の道。縁日の人波から少し外れて、お堂をひとつ見つけるたびに、この町に積み重ねられてきた祈りの時間に触れられる気がします。21日に参道を歩くときは、ぜひ足もとの小さなお堂にも目を向けてみてください。

基本情報

名称覚王山八十八ヶ所
場所名古屋市千種区、日泰寺の周辺に点在(第一番札所は山門の近く)
アクセス地下鉄東山線「覚王山」駅から日泰寺参道へ
お堂が開く日毎月21日の縁日には、ふだん閉まっているお堂が開いていることもあります
休み—
料金—(料金についての公式な案内は見つかりませんでした)
公式サイト—(関連:覚王山 日泰寺)

参考