城山八幡宮の境内を南西へ歩いていくと、木立の向こうに不思議な建物が見えてきます。神社でもお寺でも、西洋の教会でもない。中央に塔がそびえ、その両側へ翼のように棟が伸びています。旧昭和塾堂(しょうわじゅくどう)。昭和のはじめに愛知県が建てた、青年教育のための施設です。
青年を育てる「人づくりの殿堂」
大正から昭和のはじめにかけて、各地で青年団の活動が盛んになりました。愛知県はその中心となる修養の場をつくろうと、大正15年(1926年)に県議会で建設の予算を決めます。場所は城山八幡宮の境内。県が土地を借りて建て、城山八幡宮の資料では昭和3年(1928年)11月に竣工、翌昭和4年(1929年)3月に落成式が行われました。
建設には、県内の青年団員が勤労奉仕で加わっています。名古屋市の資料では延べ1,081人。自分たちが学ぶ場所を、自分たちの手でつくったわけです。「昭和塾堂」の名は、当時の愛知県知事・柴田善三郎がつけたものだそうです。
完成後は、男女の青年団の幹部や指導者を育てる場として、3日から10日ほどの合宿形式の研修が開かれました。婦人会などの団体も利用しています。城山八幡宮によれば、ここで学んだ人は16万人にのぼるといいます。
上から見ても横から見ても「人」
設計は愛知県の営繕課で、建築構造学の権威だった佐野利器(としかた)博士が助言しました。城山八幡宮の紹介によると、意匠の図面を描いたひとりは、建築家・黒川紀章の父である黒川巳喜です。
4階建ての塔を中心に、2階建ての棟が三方へ伸びています。この形は、真上から見ても横から見ても「人」の字に見えるように考えられたもの。施設の目的である「人づくり」を、建物の姿そのもので表したのです。塔の先までの高さは32メートルあります。
和と洋の混ざり方も独特です。屋根は反りのある入母屋造りで、端には鯱のような飾りが載っています。一方で、壁には西洋風の窓飾り、廊下にはアーチの意匠。城山八幡宮は、のちの名古屋市役所本庁舎(昭和8年)や愛知県庁本庁舎(昭和13年)のような、日本風の要素を取り入れた洋風建築の先がけと位置づけています。
軍の司令部、大学、区役所
昭和塾堂は、時代とともに役割を変えてきました。名古屋市の資料から、主な移り変わりをたどってみます。
- 昭和18年(1943年):陸軍に接収され、翌年からは東海軍司令部の一部としても使われる
- 終戦後:名古屋大学医学部の基礎医学の教室が移り、講義室としても使われる
- 昭和25年(1950年)から:愛知県の教育文化研究所などが入る
- 昭和41年(1966年)から:愛知県から城山八幡宮へ建物が譲られ、千種区役所の仮庁舎として使われる(昭和45年まで)
- 昭和45年(1970年)から平成29年(2017年)まで:愛知学院大学の大学院の研究室として使われる
県の青年教育の場から、戦争、戦後の復興期まで。ひとつの建物に、名古屋の近代の歩みが重なっています。敷地の一角には、昭和6年(1931年)に付属の体育館として建てられた木造の建物も残っていて、いまは城山八幡宮の武道場「養心殿」として使われています。
いまの昭和塾堂を訪ねるには
大学の利用が終わった翌年の平成30年(2018年)には、地域の団体が主催し、城山八幡宮が協力するかたちで一般公開が開かれました。このとき神社は、昭和塾堂が「解体か保存活用かの分岐点」を迎えていると案内しています。
内部を見学できる公開の案内は、2026年9月の時点で、城山八幡宮や名古屋市のウェブサイトには見当たりませんでした。訪ねるときは、城山八幡宮にお参りしたあと、境内から外観を眺めるかたちになります。建物は神社が管理しているので、立ち入りや撮影については神社の案内に従ってください。
昭和塾堂が建つのは、戦国時代の末森城の二の丸があったとされる丘です。城跡の空堀や縁結びの連理木など、境内のほかの見どころは城山八幡宮と末森城址の記事で紹介しています。覚王山のお屋敷町の成り立ちに興味がある方は、覚王山はなぜ「お屋敷町」になったのかもどうぞ。
基本情報
| 名称 | 旧昭和塾堂(城山八幡宮 境内) |
|---|---|
| 住所 | 〒464-0045 名古屋市千種区城山町2-88(城山八幡宮) |
| アクセス | 地下鉄東山線「覚王山」駅2番出口から東へ約300m(徒歩約6分)/地下鉄東山線・名城線「本山」駅1番出口から西へ約300m(徒歩約6分) |
| 公開 | 内部公開の案内なし(2026年9月時点)。境内から外観を見学 |
| 電話 | 052-751-0788(城山八幡宮) |
| 公式サイト | 昭和塾堂のご紹介|城山八幡宮 |
公開の予定などは変わることがあります。最新の情報は城山八幡宮にご確認ください(2026年9月確認)。
